日本史集中講義#1(1,2章);十七条憲法の真実

著者:井沢元彦
内容説明
結果が原因を生み、それがまた結果を生む。歴史は点と点の繋がりで見なければならない―
教科書では、本当の歴史はわからない。井沢史観のエッセンスを凝縮!聖徳太子から第2次世界大戦まで、1冊で、日本史が一気にわかる。

目次

序章 なぜ教科書では歴史がわからないのか
1章 古代―憲法十七条と日本人
2章 中世―朝幕並存の謎を解く
3章 近世―信長・秀吉・家康は日本をどう変えたのか
4章 近代―世界の中に取り込まれた日本
5章 現代―なぜ真実が見えなくなるのか
終章 歴史から何を学ぶか

■まとめ
・十七条憲法の真実

連綿とつづく話し合い絶対主義の起源は、十七条憲法の第一条がはじまり。そしてそれは今でも日本人全体を支配している原理である。

・武士はなぜ誕生したか

平安後期に朝廷が、穢れ思想によって、犯罪対策や治安維持機能を放棄してしまったために、自分の身を守る武士が起こったということ。

―平将門と平清盛も部下の武士たちに土地の所有権を認め、政治に参加させることはしなかったが、源頼朝は守護、地頭をおくことを朝廷に認めさせ、多くの武士の味方を得ることができた

――本文からの抜き出しと自分のコメント――

1章 十七条憲法と日本人

1章-2十七条憲法の真実

「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。・・・・・」 省略
(訳)人々が上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない。

⇒その第一条を三つに分けると

  1. お互いの協調性を保つことがもっとも大切
  2. しかし、その協調性は人間の愚かしさによって乱れることがある
  3. 物事を解決するには、頻繁に話し合いを行え。

と説いている。さらにいえば、話し合いで決めさえすれば必ずうまいく行くとも。

・「詔を承りては必ず慎め」(日本人よ、天皇の命令に従え)というの第三条、

・「篤く三宝を敬え」三宝というのは、仏、法、僧を指す

連綿とつづく話し合い絶対主義の起源は、十七条憲法の第一条がはじまり。そしてそれは今でも日本人全体を支配している原理である

・それ以前に、神話にでてくる国譲りの場面。天皇がこの国を支配する以前に、日本には別の王(出雲の大国主;先住民)がいたというのを神話が認めている。 ところがそこに、あとから高天原からきた別の王がやってきて、その土地を譲るようにいった

・先住民族と新来民族は相いれないのが世界史の通例
⇒普通なら戦争になるところが話し合った結果、大国主が国を譲ることにした
⇒実際には、天照大神の国を仮に大和(新来民族)と呼び、大国主の国(先住民族)を出雲だとすると、その間には戦争があったということ、それを美化し、正当化するために、
話し合いで譲ってもらった形にしたのだと憶測される。

2章 <中世>朝幕併存の謎を解く

2章-1 武士はなぜ誕生したか

朝幕併存、二つの権力が並立して共存していることは外国から見るとわかりにくい、、普通は権力が一元化されていく。

最後は、江戸幕府が日本の統治権を返還する大政奉還で、幕を閉じる

・そもそもなぜ武士は生まれたのか。

自警団が必要となった理由とは、
⇒まずは平安朝政府が、軍隊と警察を全廃した。平安中期以降になると、律令政府には、兵部省(いまでいうと防衛庁)はあるけれど兵士が一人もいないという状態。また刑部省(いまでいうと警察)ここでも捜査を行う人がいなくなり、指揮監督を行う人もいなくなった。

・日本人特有の穢れという感覚。
目に見えない、実体として存在しない汚染、とくに死の穢れは極端に回避していた。
⇒貴族ですら、死の穢れに満ち満ちていてあらゆる不幸の根源だったので、その死体は山に捨てられた。
その意識から、兵部省や刑部省は穢れた職業だとして有名無実化とした。
⇒その結果、平安後期には犯罪者が跳梁跋扈することになった。それを取り締まる役として検非違使(令外官)がうまれた。
同じ律令国家であった中国は、犯罪を取り締まることは国家の統治に必要な一分野をとらえられていたが、日本は独自の穢れという思想によって、忌むべき存在となってしまった。

・その一方で、荘園というシステムが出来上がった。
大和の国は、東大寺か興福寺の荘園だった。
そうしたものを守る存在として、自ら武器をもち武術を磨いているような組織である、武士集団が出来上がった。
まとめると平安後期に朝廷が、穢れ思想によって、犯罪対策や治安維持機能を放棄してしまったために、自分の身を守る武士が起こったということ

・その武士たちが力を持つようになると、政治への発言権をもとめるようになった、それは、武士たちに正式な土地に所有者になることが認められていなかったから。
ただ、そのころの大きな権力を手にできそうだった、平将門と平清盛も部下の武士たちに土地の所有権を認め、政治に参加させることはしなかったが、
源頼朝は守護、地頭をおくことを朝廷に認めさせ、多くの武士の味方を得ること
ができた。
それ故に、鎌倉幕府を開くことができた。

・幕府政治は、建前としては、朝廷が日本の統治権を将軍にゆだねているという形。
鎌倉幕府は、朝廷が嫌がってやろうとしない軍事、警察権プラス、後には徴税権などが委任されているにすぎないという立場

 

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